「地アタマのすすめ」が教えてくれたこと

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

守屋義彦著「かしこい子どもを育てる地アタマのすすめ」(2004年)という本については、ご存知の方も多いと思います。

小学校で長年算数を教え、現在は国立学園小学校の校長を務めている守屋氏ですが、彼の言う「地アタマ」とは、自分で考え、自分で行動し、自分の力で生き抜いていくために必要な、人間の「素地」のこと。「自分の頭できちんと考える力」を生み出してくれる根本的な能力、と言い換えてもいいと思います。

その地アタマ、なぜ今の子どもたちに必要かというと、「ひと昔前の高度経済成長期には、[だれかが先に行った道を、上手になぞって生きていくこと]も生活向上のためには必要だったのでしょう。しかし、自分たちの前に道がなく、自らが自らの道を作っていかなければならなくなったいま、この考え方には大きな問題があります」という背景のためだ、と著者は説明しています。誰かが決めた正解を探すだけではもうダメだ、というのです。

また、勉強で大事なのは「答え」そのものよりも「答え」にたどり着く道筋を自分で模索することであり、色々な物事・勉強に本当にかかわるためには「どうして?」という質問は欠かせない、子どもの「どうして?」を大切にしよう、とも守屋氏は書いています。

これは、まさに私が critical thinking を通して子どもたちに教えようとしていることと同じです。地アタマ=critical thinking のあるアタマ、とも言えるのではないか、と思いました。

私が Critical Thinking Project を通じて子どもたちに伝えたいのは、「大事なのは自分で考えること、なぜ?って考えてみること、考えるって楽しい!と発見すること」というメッセージですが、この本は、私のこのような思いは間違っていなかった、と教えてくれている気がします。

そして、もうひとつ、この本が教えてくれたのは「失敗なんて怖くない」ということです。

失敗しないように一生懸命がんばることと、失敗を怖れることとは違う — という、もしかしたら多くの人にとっては当たり前かもしれないけれど、私にとっては人生最大の課題である「問題」について、今一度考えさせられました。間違えた理由を子どもに考えさせることがいかに「失敗から学ぶ」ことにつながるか、また、子どもが転んだ時に「次はもっと上手に転ぼうね」と親が言えることがいかに大事か、この本は気づかせてくれます。

この本を読んで以来、失敗についてずっと考えていたのですが、先日、もうすぐ4歳になる我が息子がふいに「アメの絵をかいてあげる」と言ってきました。しばらく経って見てみると、床には描きかけの絵が落ちていました。「どうしたの?」と息子に尋ねると、「それ、しっぱいしちゃったの」。失敗したからと言ってしょげる様子もなく、息子は新しい紙いっぱいに無数の「アメ」を黙々と描き続けていました。

息子の「アメの絵」の完成図はリビングに飾りました。一方の、棒付きキャンデーのようなアメが3つだけ描かれた、余白だらけの「しっぱいしちゃった」絵は、今、私の目の前にあります。

大人の場合は、本当に失敗が許されない状況もあるわけですが、それでも、何か失敗した時には、「なんでかなぁ」と子どもと一緒に考えられるような親になるのが目下の目標です。失敗しても大丈夫だよ、次がんばればいいんだよ、と今日も息子の絵が励ましてくれます。

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自分の「好き」について、とことん考える

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

子どもに critical thinking を教える時はいつも、まず最初に自分の好きなものを挙げてもらって「なんでそれが好きなの?」と質問することにしています。「意見」には必ず「理由」がなくてはならない、という critical thinking の大原則になじんでもらうためです。

なぜ意見には理由が必要なのかと言うと、人の意見というものは理由(根拠)があって初めて説得力を持つからです。そして、この場合の「意見」には普通、好き嫌いの問題は含まれません。「くさやが大好き」という人が、どんなにすばらしい「理由」を並べ立てても、くさやが嫌いな人が「言われてみればそうだ、くさやが好きになったぞ」とは思わない、ということですね。

では、どうして「○○が好きなの?」とあえて子どもたちに聞くのかというと、ひとつには、とにかく「なぜ」と考えることが大事であり、自分の好きなスポーツやキャラクターなどが題材であれば「考えるって楽しい」と思ってくれるのでは、という思惑があるからです。さらに言うと、「なぜ自分は○○が好きなのか」という問いが、いずれ自分という人間を知るきっかけになってくれるかな…と淡い期待を抱いている、というのもあります。

私は大学で論文指導の授業をしていますが、学生がよく「卒業論文のテーマを決められない」と相談に来ます。あくまでも自分で考えてもらいたいので、私の方から「○○なんかどう?」と提案することはありません。かわりに、「なぜ自分はこの専攻に興味があるのか、なぜそもそもこの分野を選んだのか」ということをとことん考えてみてね、と言うことにしています。

とことん考える、というのは、フローチャート式にどんどん考えを深めていくというイメージです。「なぜ自分はこの専攻を選んだのか」への答えが例えば、「先輩が薦めてくれたから」だとしたら、さらに進んで「なぜ先輩の薦めがそれほど意味があったのか」と自問し、仮に答えが「先輩が話してくれた授業の内容がおもしろそうだったから」であれば、「その『授業の内容』とは何か」と具体化し、その授業がディスカッションであれば、「私はなぜディスカッションが好きなのか」という具合にさらに掘り下げていくのです。

すると、今まではあまり気づかなかった「自分」という人間の性質に気づいたり、自分が研究してみたいテーマもおぼろげながら見えてくることが多いようです。中には、学問とは全く関係ない答えに行き着くこともありますが、それでも若いうちに自分についてあれこれ考えてみるのは、(よけいなお世話かもしれませんが)決して悪いことではないと思っています。

若くはなくとも(たとえば私)「なぜ私は○○が好きなのか」と真剣に考えてみると、意外な発見があったりします。私自身の「好き」を例に、この「掘り下げ質問プロセス」を具体的にお見せすると…

私はチョコが大好き(なぜ?)→苦いから(そもそも苦いものが好きなのか?)→苦い野菜は好きだけれど、苦ければなんでもいいというわけではない。

これ以上掘り下げられない、という状態になったら、自分の好きなもの/人(今回の場合はチョコ)にまつわる、いちばん印象深いエピソード(あるいは原体験)について考えてみます。私の場合は、小学1年の時に6年生のおねえさんが「チョコレートパフェが食べたい!」と言ったのを聞いたことです。「チョコレートパフェを食べたいと発言すること=かっこいい大人の証」と思ったんですね。原体験について考えをめぐらせる内にそんなことを思い出しました。私にとっては「チョコレート(パフェでも何でも)を食べる=ちょっと背伸びをした気になる、かっこいい行為」という図式があることがぼんやりと見えたわけです。そう言えば、背伸びするの好きだよなぁ、私。と納得です。

先日、やはりチョコ好きの友人にこの話をしたところ、彼女の原体験は、子どもの頃に初めて食べたチョコフレークで、「世の中にこんなにおいしいものがあるなんて!」と感動したと言っていました。そこから話は進んで、「私たちが子どもの頃は、『物』が満足感の元だったのかもしれない」とも話してくれました。

相手を説得するための「理由」ではなく、自分を知るための「理由」。皆さんもお時間がある時に、とことん考えてみませんか。

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