<お知らせ>
土曜クラス、始まりました!日本にいながら欧米の思考法が身につく、小学生対象の1時間レッスンです。
<ワークショップ情報>
- 「お母さんのためのクリティカル・シンキング」(1月29日)
- 「女性のためのクリティカル・シンキング」(2月4日)
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こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。
最近話題の「選択の科学」(原題:The Art of Choosing)という本、ご存知ですか。
NHKの「コロンビア白熱教室」にも登場した、米コロンビア大のシーナ・アイエンガー教授による本で、選択肢は多ければ多いほどいいのか、生い立ちは選択の仕方にどう影響するのか、など、選択という人間による営みを徹底的に解剖した、実におもしろい一冊です。
この本を読んで再認識したのは、個人がほぼ何でも「選択」できるようになったのは、長い人類の歴史においてはごく最近の現象だということです。日本の場合を考えてみても、私の親よりも上の世代はまだお見合い結婚が主流だった—人生の重大な選択を他の人に委ねていた—わけです。結婚相手を自由に選ぶのが「常識」となったのはここ30年ほどのことでしょうか。
アイエンガー氏の言葉を借りて言いかえると、日本はこの30年で、collectivism(集団主義:個人よりも集団の利益を重んじる文化)から individualism(個人主義:個人が何事も選択するのが原則)へと移行してきたわけです。
集団主義においては「世間様」が社会規範となり、重大な決断(例えば、結婚相手)は親や年長者が決めてくれるのですから、個々人は自分で選ぶ必要もチャンスもほとんどないのですよね。
さて、自分がどれくらい個人主義(あるいは集団主義)なのか、それをチェックする方法が本書には紹介されています。どうやるかと言いますと(おもしろいので是非一度お試しください):
紙を1枚用意して、表面には「親や他人ではなく、自分で選択/決断したいこと」をリストアップし、裏面は「自分で決めなくてもいいこと、他の人に選択してもらった方がいいこと」を書きます。
アイエンガー氏が90年代後半にこの方法でアメリカ人と日本人の学生100人を調査したところ、アメリカ人学生の書いた紙のほとんどが、表面は余白がなくなるほどびっしりと埋まったそうです。ところが裏面は真っ白。裏面に何か書かれていたとしても、せいぜい「自分や、愛する人の死ぬ時期」程度だった、と報告されています。
一方、日本人学生。彼らは表面よりもむしろ裏面の方が埋まっており、日本人学生が表面に挙げた項目数は、アメリカ人学生のそれの4分の1しかなかったそうです。
本書には、日本人の集団主義性を指摘する調査結果が他にもいくつか紹介されているのですが、私が興味を引かれたのは、90年代後半に学生だった日本人—つまり、私より10歳も下の世代—が、アメリカ人に比べると「自分で選択する」ことを潔しとしていなかった、つまり、集団主義よりだったということです(もちろん、100人の学生だけで全てを語るのは危険ですし、90年代という時代背景も考慮に入れる必要があります)。
話は飛びますが、日本人は critical thinking が苦手だ、とよく言われます。アメリカに住む日本人駐在員の子どもがいちばん苦労するのは英語ではなく critical thinking だ、と聞いたこともあります。
critical thinking は情報や意見の是非を自分で判断して、自分なりの正解を「選択」する作業です。アイエンガー氏が言うように、もしも日本人が集団主義的で、自分で選択することに慣れていないのだとしたら、critical thinking が苦手なのも当然なのかもしれません。しかし、これからの社会では、自分で考えて自分で決めること—つまり、良い意味での個人主義への移行—がますます求められていくと思います。その中で、「和」を重んじるアイデンティティがどう残っていくのか。興味深くもあり、またいい形で残していきたいとも思います。
ちなみに、集団主義から個人主義に移行する過渡期に生きる私たち、という視点は色々なことを説明してくれるようにも思えます。私の世代には、「なんで私が家事をしなくちゃいけないの?私だって、家事をしないという選択肢があるのに」と思っている人が少なからずいるようです(当然のように家事をこなしてくれた、私の親の世代とは対照的ですね)。私の世代は、自らの意志で家事でも何でも選択する個人主義と、「家事をこなすこと=世間様が決めた、私の任務」とする集団主義との間で揺れているのかな、とうがったことも考えたくなります。私の場合は単なるわがまま、かもしれないですが。