たいへんな時こそ、「また聞き」情報に注意

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

私は大学で長年英語論文の指導をしていますが、学生には「孫引きは原則、しないように」といつも言っています。「専門家の話は必ずしも正しいとは限らない!?」でも書きましたが、Aという文献をBさんが引用すると、Bさんが引用した時点で何らかの解釈が付加される可能性があります。また、Bさんの引用を読む時点で今度は自分の解釈も入り込む可能性があることも考えると、本家本元のA文献とはまるで違うことをあたかもA文献が言っていたかのように論じてしまう危険性があるんです。

ところが先日、私自身がこの間違いを犯してしまいました。厳密に言うと、「孫引き文献」ではなく「また聞き情報」をうのみしてしまった、ということなのですが。

我が家の近所に輸入食材を扱う人気スーパーがあるのですが、先日、このスーパーが近々閉店するらしい、と友人が教えてくれました。「閉店するんだって、大ショック」と夫にも話しました。二人で「なぜ閉店に至るのか」という理由を検討した結果、長引く円高と外国人の住民の減少が主な理由では、ということで落ち着きました。

ところが数日後、夫が当のスーパーで「閉店するのはリニューアルのため」ということを聞いてきました。時同じくしてスーパーからも「ビル老朽化のため一旦閉店する」というハガキが届きました。

どうやら事の真相は、例の友人が閉店するとスーパーで聞いた時点では、スーパーの店員たちはリニューアルオープンするかどうか把握できていなかった、ということらしいです。だから友人は私に真実を教えてくれたわけですし、罪はないんですね。

「罪」があるのは私の方です。「理由を考える訓練をしよう」でも書きましたが、情報の是非を吟味する必要があるのは、主に、その情報が自分(の人生)にとって重要な場合だけです。今回のスーパー情報は、私にとっては「重要」なものだったわけですから、友人に「閉店するらしい」と教わった時点で、その情報が本当かどうか、そもそもの情報源(スーパー)に連絡して「本当ですか」と確かめるべきだったのです。与えられた情報をうのみにしないのは critical thinking の基礎中の基礎なのに、「大好きなスーパー」などといった感情が揺さぶられる(?)ような話になると、普段はできているはずの「情報の真偽を確かめる」という作業までできなくなってしまったんです。

震災以来、人から聞いた話をうのみにしてしまうことが少なからずあるように思います。小さな子どもを持つ母親としては、放射能関係の情報にも敏感になります。「あの食材は危ないんだって」「○○を食べると内部被爆に効果があるらしい」などと言われると、無条件で信じている自分に気づきます。

相手が善意で教えてくれた情報を疑うべきだ、と言っているわけではありません。それに、放射能などの場合は情報の真偽のほどを確かめることが難しかったり、真偽のほどがわかっても、それが何を意味するのかわからなかったりすることもあると思います。

でも、たいへんな時だからこそ、情報の真偽をできる限り確かめて「真実」を追求する必要があるのだと思います。人の話をすっかりうのみにしちゃった人がなーに言ってるの、と言われてしまうと返す言葉がないです(本当に反省)。

ところでこのような「失敗した人が何を言うか」的な論法は、以前ブログにも書いた「NG議論」だってお気づきでしたか。なんだかうまく言い逃れているような気もするのですが。

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