月別アーカイブ: 2011年10月

親子で考えてシアワセになる!?

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

私はビジネス・ブレークスルー大学(大前研一氏が主宰する、ビジネスマンを対象としたオンライン大学)でも教えているのですが、そちらの英語のリーディング・クラスでは今、Happier(Tal Ben-Shahar 著)という本を読んでいます。

Ben-Shahar 氏はポジティブ心理学(「よい生き方」「充実した人生」などを研究する心理学の一分野)の専門家で、本書はハーバード大での氏の超人気講座を書籍化したものです。「幸せとは何か、幸せになるために人はどうすればいいのか」という問題を今一度考えてみよう、という内容になっています。

今日は、この本で紹介されている「幸せ」になるためのアクティビティで、親子でできるものをご紹介したいと思います。私自身、小学生の娘と試してみましたがけっこう盛り上がります。夜寝る前に20分ばかり、子どもと今日一日を振り返るという趣向なのですが、考えるための訓練にもなると思います。このアクティビティで果たして本当に幸せになれるかどうかは…うーん、まだわかりません。

以下、手順です:

  1. 紙を各々一枚ずつ用意する(定期的に続ける場合は専用のノートを用意することも可)
  2. その紙に、その日に起きたことで「ありがたいな」と思った出来事を5つ書く(字がまだ書けない子どもの場合は、口頭で言い合う)
  3. 書き終わったら、お互いに見せ合う(もちろん、大人ひとりで1と2の手順だけ行なうこともできます)

「5つの出来事」はありがたいと感じてさえいれば、どんなことでもかまわないのだそうです。「今日も一日健康で過ごせた」でも「子どもが笑わせてくれた」でも「夫が昇進した」でもいいんですね。

娘とやってみて感じたのは、2つぐらいならすぐ書き出せても、5つとなるとけっこう骨が折れる、ということです(感謝の気持ちが特別浅い親子なのかもしれませんが)。必死に考えた末に子どもと紙を見せ合って「そうなのね、そんなことがあったんだ」と話すのは、なかなか楽しいですよ。「どうしてありがたいって思ったの?」と理由を聞き合うと、とてもいい critical thinking の訓練にもなると思います。

同じ出来事を一緒に経験していたのに感じ方が違ったり、あるいはまったく同じことを「ありがたい」と感じていたということを発見するのもおもしろいんです。子どもが小さいうちは何かとたいへんですが、でも、子どもとこういう時間を持てること自体、「ありがたい」ことなのかもしれないですね。

我が家はこのアクティビティを習慣化できないでいますが、これを毎日やるようになると、(夜になったら5つは書かなければいけないので)「ありがたい」と感じたことをなるべく記憶に留めておこうと努力するのではないかとも思います。記憶に留めることによって、感謝の気持ちが持続してハッピー感が増す、ということも十分考えられます。

ちなみに、このアクティビティのベースとなっているのは「日記をつけている人には、気持ちが豊かで健康な人が多い」という研究結果だそうです。本当かなぁ、その研究の詳細(論拠)を聞かないことには納得できないなぁ、と critical thinking な私は考えてしまいます。

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たいへんな時こそ、「また聞き」情報に注意

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

私は大学で長年英語論文の指導をしていますが、学生には「孫引きは原則、しないように」といつも言っています。「専門家の話は必ずしも正しいとは限らない!?」でも書きましたが、Aという文献をBさんが引用すると、Bさんが引用した時点で何らかの解釈が付加される可能性があります。また、Bさんの引用を読む時点で今度は自分の解釈も入り込む可能性があることも考えると、本家本元のA文献とはまるで違うことをあたかもA文献が言っていたかのように論じてしまう危険性があるんです。

ところが先日、私自身がこの間違いを犯してしまいました。厳密に言うと、「孫引き文献」ではなく「また聞き情報」をうのみしてしまった、ということなのですが。

我が家の近所に輸入食材を扱う人気スーパーがあるのですが、先日、このスーパーが近々閉店するらしい、と友人が教えてくれました。「閉店するんだって、大ショック」と夫にも話しました。二人で「なぜ閉店に至るのか」という理由を検討した結果、長引く円高と外国人の住民の減少が主な理由では、ということで落ち着きました。

ところが数日後、夫が当のスーパーで「閉店するのはリニューアルのため」ということを聞いてきました。時同じくしてスーパーからも「ビル老朽化のため一旦閉店する」というハガキが届きました。

どうやら事の真相は、例の友人が閉店するとスーパーで聞いた時点では、スーパーの店員たちはリニューアルオープンするかどうか把握できていなかった、ということらしいです。だから友人は私に真実を教えてくれたわけですし、罪はないんですね。

「罪」があるのは私の方です。「理由を考える訓練をしよう」でも書きましたが、情報の是非を吟味する必要があるのは、主に、その情報が自分(の人生)にとって重要な場合だけです。今回のスーパー情報は、私にとっては「重要」なものだったわけですから、友人に「閉店するらしい」と教わった時点で、その情報が本当かどうか、そもそもの情報源(スーパー)に連絡して「本当ですか」と確かめるべきだったのです。与えられた情報をうのみにしないのは critical thinking の基礎中の基礎なのに、「大好きなスーパー」などといった感情が揺さぶられる(?)ような話になると、普段はできているはずの「情報の真偽を確かめる」という作業までできなくなってしまったんです。

震災以来、人から聞いた話をうのみにしてしまうことが少なからずあるように思います。小さな子どもを持つ母親としては、放射能関係の情報にも敏感になります。「あの食材は危ないんだって」「○○を食べると内部被爆に効果があるらしい」などと言われると、無条件で信じている自分に気づきます。

相手が善意で教えてくれた情報を疑うべきだ、と言っているわけではありません。それに、放射能などの場合は情報の真偽のほどを確かめることが難しかったり、真偽のほどがわかっても、それが何を意味するのかわからなかったりすることもあると思います。

でも、たいへんな時だからこそ、情報の真偽をできる限り確かめて「真実」を追求する必要があるのだと思います。人の話をすっかりうのみにしちゃった人がなーに言ってるの、と言われてしまうと返す言葉がないです(本当に反省)。

ところでこのような「失敗した人が何を言うか」的な論法は、以前ブログにも書いた「NG議論」だってお気づきでしたか。なんだかうまく言い逃れているような気もするのですが。

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