こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。
critical thinking は日本語では「批判的思考」と訳されますが、「批判」という言葉がマイナスイメージがあるせいか、critical thinking 力を身につけると、やたらと理屈っぽい人になってしまうのでは?という疑問を時々耳にすることがあります。
たしかに、「あそこのチーズケーキ、おいしいのよ」と軽い気持ちで言ったのに「あなたが言うところの『おいしい』の根拠は何か。説得力のある理由を提示しない限り、私はあなたの主張は信じない」などと迫られたら、ちょっとイヤですよね。
critical thinking には「意見はしかるべき理由に基づくものでなければいけない」という大原則があります。しかし、もちろん、どんな会話にもこの原則を持ち込まなければいけないわけではありません。critical thinking をとてもわかりやすく説明してくれる「クリティカル進化論」(道田泰司・宮元博章著)にも書いてあるのですが、おそらくcritical thinking を必要とするのは、「①その判断が将来にまで影響を及ぼしそうなとき、②他人に迷惑をかける可能性があるとき、③お金が絡むとき」の3シチュエーションぐらいにしぼられるのだと思います。
つまり、例えば「狩野みきはすばらしい教師である」と誰かが言ったとします。私がどんな教師であるか、その真実のほどを知らなくとも将来的/金銭的にも困らず、誰にも迷惑をかけないのであれば、(うそだぁ)と思っても「ふーん」と聞き流しておけば(おそらく)いいということですね。一方、もしも、私にレッスンを受けて critical thinking 力を身につけ、それを武器に就職しよう、と考えている人であれば(そういう方がもしかしたらこれを読んで下さっているかもしれないです…汗)、「本当に狩野に習っていいのか」「すばらしい教師である」の理由は何か、と問いただす必要がある、ということです。
西洋人は、自分の意見を言う際に必ずと言っていいほど「理由」を述べてきます。こちらが聞かなくても「なぜならば」と言ってくるので「理由なんて聞いちゃいないんだけどなぁ」と思う、という日本人は私のまわりにはそこそこいます。以前、「ディズニーのアニメ映画は、主人公がやたらと理由ばかり口にするので、うるさくて苦手だ」という日本人学者のエッセーも読んだことがあります。
乱暴な一般化はできませんが、(少なくとも私のまわりにいる)日本人は、「理由」を言うことをなじみのない行為と思う傾向がある、ということですよね。アメリカなどとは違い、ある程度同じような文化や宗教を共有している日本では「なんで?」とあえて尋ねなくてもお互い「あ・うん」の呼吸でわかり合える、という側面もあると思います。
しかし、なじみがない、ということは、普段からある程度気をつけておかないと、いざと言うときに「理由」が言えない、ということでもあると思います。将来的/金銭的に影響が大きそうで、他人に迷惑をかけそうな時になったら、いつでも理由もきちんと考えつくし、議論もきちんとできるわ…ということならいいのですが、実際はそう簡単には行かないようです。授業で学生に意見の根拠を尋ねると、「なんとなく」「わからない」と答える人がとても多いと感じます。
「critical thinkingというスイッチがある、人生」でも述べましたが、いざとなったら critical thinking というスイッチを入れられる状態にしておく、ということは、まずはそのスイッチ(critical thinking を場合に応じて実践できる素地)を作り、スイッチが錆び付かないように普段からお手入れしておく必要があります。
理由を考える訓練は、日常的に簡単にできるんです。たとえば、目の前に、ぶどう・イチゴ・みかん味の飴があったとします。「イチゴにしよう」と決めたら「私はなぜイチゴの飴を食べたいのか」と自問します。理由は「イチゴが好きだから」でも「そろそろイチゴの季節だから」でも何でもいいんです。あるいは、「今日の昼は牛丼にしたい」と思ったら「なぜ牛丼にしたいと思うのか」自問自答するのです。え〜っ、そんなの疲れそう…と思われるかもしれませんが、仕方ないんですね、トレーニングですから。
でも、これはあくまでも、理由を考えることに慣れるための「トレーニング」ですので、普段の会話ではしないで下さいね(日常会話でも是非したい、とおっしゃる場合は止めませんが…)。