月別アーカイブ: 2011年10月

議論のお作法

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

今日のテーマは「議論の作法」です。

そもそも日本の学校では議論そのものについて教わることが少ないですから、議論の作法を教わることも少ないと思います。でも、日常生活でも、あるいは、社会に出てからも「議論をする際に気をつけるべきルール」はとても大事なたしなみだと思います。グローバル化の今、これから日本人も議論をする機会が増えていくでしょうから、子どもたちにはこの「たしなみ」を教えてあげるべきだと思っています。

以下のふたつの会話を見て下さい。何が「議論の作法上のNG要素」だと思いますか。

会話①
夫「このスープ、もうちょっと塩を入れた方がいいんじゃないか」
妻「あなたはそもそも料理なんかしないでしょ。○○さんのご主人なんか、週末は料理してくれるんですって。料理すらしない人に、料理のことをとやかく言う権利はないわ」

会話②
母「20歳になるまでお酒は飲んじゃダメよ」
娘「お母さんだって、高校生のときにお酒飲んだことあるっておばあちゃんが言ってたわよ。お母さんに、そんなことを言われる筋合いはないわ」

このような会話(けんか?)は皆さん一度ぐらいは耳にしたことがあるかと思います(私は時々、いや、よく?やってしまいます)。何が作法に反するか、おわかりでしょうか。

まず①で問題になっている「議論」は「このスープは塩味が足りないので、もっと入れた方がよい」ですね。夫の何気ないこの一言(議論)に対し、妻の方は「塩味が足りないかどうか」を論じてはいません。議論にきちんと答えていないのです。議論にきちんと答えないのは、yes/no question で聞かれているのに、yes/no 以外の返答をするのと同じような「NG感」が実はあります。

夫が料理をしない→料理をしない人に料理を論じる権利はない、と言っています。このように、議論をしている人(夫)の普段の行動や性質を理由に、その人(夫)の議論を「意味がない」とするのは論理的ではないため、「議論上のNG」とされています。(ちなみに、この種の個人攻撃を英語では ad hominem argument と言います。ad hominemとはラテン語で「人に向けられた」という意味で、つまり「人身攻撃論法」のことです。)妻の主張は一見もっともらしく思えますし、一女性としては肩を持ちたくなりますが、料理をしたことのない人は料理を論じる資格はない、って言う主張もおかしいですよね。

一方、②における「議論」は「お酒は二十歳になってから」です。母親が口にしたこの「世の常識」(議論)に対し、娘は「お母さん自身が二十歳前に飲酒していたのだから、『お酒は二十歳になってから』なんて私には言えないはずだ」と言っています。「あなただって同類なんだから、何も言えないはずでしょ」と言って、相手の議論に答えていませんね。したがって NGです。(こちらはよく、you-too argument「お前だって論法」と呼ばれます。)

議論とは本来無関係な相手の「人間性」に矛先を向けて議論そのものをすり替えてしまうのは、卑怯ですし、相手を侮辱してしまうので、モラル的にも NG ですよね(反省)。議論とは、ひとつの議題をめぐって、意見vs意見という構図で戦うべきものであって、意見vs人という構図になってはいけないのです。でも、自分の行動や意見を批判されると、ついかっとなって言わなくてもいいことを言ってしまう…ことが、人間ですから、ありますよね。

話が少々それますが、私は大学の論文指導の授業ではいつも学生に peer review(お互いの論文を読み合って、いい点悪い点を指摘し合う)をしてもらっています。ところで、日本人学生を相手に peer review を行なう場合、いつも最初に言わなければいけないことが、 Don’t take anything personally.(何ごとも、個人攻撃だと思わないで下さい)なんです。なぜかと言うと、できる限り言葉でわかり合うスタイルのコミュニケーションに慣れている西洋人、つまり、ディベートなどの「議論」文化に触れて育っている西洋人とは違い、日本で教育を受けた人は、自分の作り出したもの(論文・意見・行動など)を批判されることはすなわち、自分自身の人格を否定されていることだと思う傾向が少なからずあるように思えるからです。議論そのものと議論に参加している人とを混同してしまう、というのは、上の「人身攻撃」も同じですよね。

議論のお作法としては何を注意すべきか、ということですが、相手の主張がどんなに理不尽に思えても、どんなに気分を害されても、相手の人格を攻撃しないよう注意することが大事なのだと思います。相手の主張が理にかなっているのか、相手が指摘しているような事実はそもそもあるのか、ということを論じるのが、本来の「反論」なのですよね。

では、「あなたには言う権利がない」的な攻撃をされてしまった場合どうするか、という問題ですが、その答えのヒントは、以前書いた「難クセをつけてくる人の対処法」にあります。つまり、相手を尊重しつつ、真実だけを言う、というスタイルですね。たとえば、上のスープ会話であれば:

夫「このスープ、もうちょっと塩を入れた方がいいんじゃないか」
妻「あなたはそもそも料理なんかしないでしょ。○○さんのご主人なんか、週末は料理してくれるんですって。料理すらしない人に、料理のことをとやかく言う権利はないわ」
夫「たしかに、僕は料理はしない。その通りだ。でも、スープに塩を入れたらいいんじゃないかという話と、僕が料理をしないこととはまったく別の話だ。僕は、もう少し塩味を足した方がいいんじゃないか、と提案しただけだ」

とするのが「正しい」議論だと思います。しかし、こんな切り返しをされたら、ますます頭に血が上ってスープなんてひっくり返してしまいそう…と思うのは私だけでしょうか。

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子どもに「バカ」と言ってはいけない、と教えることの難しさ

こんにちは、「子どものための Critical Thinking Project」を主催しています、狩野みきです。

今日のテーマは「子育ての難しさ」「ベーシック語彙を定義することの難しさ」です。かなりプライベートな話で恐縮なのですが…

先日、家であれこれ片づけをしていたら、3歳半の息子が何の脈絡もなくいきなり「ママのバカ〜!」と言って、嬉しそうに私の横を駆けぬけていきました。一瞬、聞き間違いかと思ったのですが、そういえば、その数十分前にも娘(7歳)に向かって「バカ」みたいな音を発していたのを思い出し、おそろしく低い声ですごんで息子を呼び止めました。

「ちょっと待ちなさい。今…何て言った?」

こちらの殺気に気づいたのか、息子はすでに凍りついています。我が家には自慢できるような教育方針はありませんが、娘が生まれたときに夫と決めたことは「子どもには何でも理由を説明してやろう」ということでした。子どもだって説明すれば聞いてくれる、頭ごなしに叱ったり「ダメ」と言うのはよそう、と決めたのです。

これは critical thinking の授業でよく学生たちに言うことなのですが、ある「現象」の根底にある理由に到達するためには「なぜ?」という質問を根気よく繰り返すことが大事です。ひとつめ目の「なぜ?」という質問に対する答え(理由)に対して再び「なぜ?」と問いかけ、その答えに対してもさらに「なぜ?」と半永久的に聞いていくのですが、そうすると、因果関係がクリアになりやすいのです(経営コンサルタントの人たちもこの手法をよく使うそうで、英語では why-whys と呼ばれます)。

私は、ついクセで、我が子相手にもよくこの why-whys を実行してしまうのですが、息子にも聞いてみました。「バカって人に言っていいの?」(半泣きの息子の答え:ダメ)「どうしてバカって人に言っちゃいけないの?」(もはや完璧に泣いている息子の答え:いやなきもちに、なるから)「バカって言われるとどうしてイヤな気持ちになるの?」(大泣きのため、答えられない息子)

「あのねぇ、バカっていう言葉の意味はね…」と自信たっぷりに言いかけたところで、「バカっていうのは頭が悪いこと」と言っても3歳児にはおそらくわからないだろうということに気づきました。こういうベーシック(?)な抽象語彙を、小さな子どもでも理解できるように説明することがいかに難しいか、あらためて感じました。

しかし、言葉につまったからと言って引き下がるわけにはいきません。そこで、もうすぐ8歳になる娘に(押しつけて)説明してもらうことにしました。娘は、ドラえもんに登場するのび太くんを例に出して説明したらしく、息子も娘の説明を聞いて、なんとなく理解していたようでした。

この後「自分のことをバカというのはかまわないけれど、人のことをバカというのは絶対にしてはいけない、なぜなら、その人はお勉強や色々なことを一生懸命がんばっているかもしれないのに、バカって言われたら悲しくなるでしょう」と息子に告げました。息子から「もう、しません」の約束をとりつけて、お小言セッションも終了しました。

さて。私自身が「もうっ、バカじゃないの!」と(理由はさておき)他の人に時々言っている、ということに気づいたのはその日の晩のこと。娘にも尋ねてみたら「ママは確かに時々言う」と言うではないですか。ガーン。誰よりも私が「バカ」という言葉を人に向かって発していたのだ、ということにやっと思いをいたしました。why-whys や わかりやすく言葉を定義する以前に、critical thinking 以前に、人間として母親としてもっと気をつけるべきことがあった、ということを子どもたちから教わりました。

ごめんね、もう、しません。

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