月別アーカイブ: 2011年10月

子どもが critical thinking を学ぶメリットとは

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

「子どもに critical thinking を教えるプロジェクトを始めたんです」とまわりの人に言うとよく、「子どもにはそんな難しいこと、わからないでしょう」と言われます。critical thinking は論理性をベースにした考え方ですから、子どもにそんな小難しいことを教えなくても…という気持ちは実は私も理解できるんです。

今日は、このような疑問への私なりの答えでもあり、また、実際に小学生に critical thinking を教えてみて感じた「手応え」について書きたいと思います。

普段、大学生やビジネスマンを相手に critical thinking を教える場合は、理屈を理解してもらいつつ実践する、というスタイルをとっています。大人の場合は、「なぜこのような考え方をするのか」という理屈がわかっていないと実践しづらい、というケースが多いからです。

一方、子ども(小学校中学年ぐらいまで)を教える場合は違います。レッスンでは、「事実」と「意見」を識別させるクイズをしたり、発想力をつけるためのなぞなぞをしたり、理由を考えるクセをつけるために「どうして?」という質問をしつこくしたりしますが、なぜそのようなアクティビティをするのか、という理屈は説明しません。理屈を話しても子どもは退屈してしまうことが多いですし、子どもの場合は「習うより慣れろ」路線で教えた方が定着しやすいのでは、と考えています。

しかし、教師側は明確な目的のもとにアクティビティを行なっているつもりでも、端から見ると「なぞなぞやクイズをしているだけで、これがレッスンだろうか」と思われるかもしれないんですね。そこで、保護者の方にはなるべく参観していただいて、後から「あのアクティビティは○○という目的があったのです」と説明するようにしています。

つい先日、小学校低学年の子どもに critical thinking のプライベート・レッスンを行ないました。とにかく一生懸命考えようね、と約束することから始まったレッスンでしたが、終了後、そばでずっと様子を見て下さっていた保護者の方に感想をお聞きしたら、「あんなに考えて話す我が子の姿は初めて見たので、それが見られただけでもよかった。あのアクティビティにはそういう意味があったんですね、とてもおもしろかった」とおっしゃって下さいました。

レッスンをしてみて感じたことは、大人よりも子どもの方が「事実」と「意見」を明確に識別できるのではないか、ということです。また、大人が思っているよりも子どもはずっと論理的で、その「論理性」は頭で考えた末の産物というよりも、むしろ勘的なものである、ということも印象的でした。「どんな答えだって正解だから、何でも言ってみて」と言われると、子どもは考える「底力」を出してくれるようにも感じました。

理屈よりもむしろ感覚的なところで論理をとらえられる内に訓練をすれば、critical thinking も自然と身につくと思います。自然と身につくからこそ、大人になったときに critical thinking を自在に実践できるようになる—ことがこのプロジェクトが掲げるゴールです。

そして、これは決して不可能なゴールではないと思っています。西洋人だって、子どもの頃から色々な場面で critical thinking に触れているからこそ、大人になってごく自然に critical な思考ができるようになっているわけですから。

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理由を考える訓練をしよう

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

critical thinking は日本語では「批判的思考」と訳されますが、「批判」という言葉がマイナスイメージがあるせいか、critical thinking 力を身につけると、やたらと理屈っぽい人になってしまうのでは?という疑問を時々耳にすることがあります。

たしかに、「あそこのチーズケーキ、おいしいのよ」と軽い気持ちで言ったのに「あなたが言うところの『おいしい』の根拠は何か。説得力のある理由を提示しない限り、私はあなたの主張は信じない」などと迫られたら、ちょっとイヤですよね。

critical thinking には「意見はしかるべき理由に基づくものでなければいけない」という大原則があります。しかし、もちろん、どんな会話にもこの原則を持ち込まなければいけないわけではありません。critical thinking をとてもわかりやすく説明してくれる「クリティカル進化論」(道田泰司・宮元博章著)にも書いてあるのですが、おそらくcritical thinking を必要とするのは、「①その判断が将来にまで影響を及ぼしそうなとき、②他人に迷惑をかける可能性があるとき、③お金が絡むとき」の3シチュエーションぐらいにしぼられるのだと思います。

つまり、例えば「狩野みきはすばらしい教師である」と誰かが言ったとします。私がどんな教師であるか、その真実のほどを知らなくとも将来的/金銭的にも困らず、誰にも迷惑をかけないのであれば、(うそだぁ)と思っても「ふーん」と聞き流しておけば(おそらく)いいということですね。一方、もしも、私にレッスンを受けて critical thinking 力を身につけ、それを武器に就職しよう、と考えている人であれば(そういう方がもしかしたらこれを読んで下さっているかもしれないです…汗)、「本当に狩野に習っていいのか」「すばらしい教師である」の理由は何か、と問いただす必要がある、ということです。

西洋人は、自分の意見を言う際に必ずと言っていいほど「理由」を述べてきます。こちらが聞かなくても「なぜならば」と言ってくるので「理由なんて聞いちゃいないんだけどなぁ」と思う、という日本人は私のまわりにはそこそこいます。以前、「ディズニーのアニメ映画は、主人公がやたらと理由ばかり口にするので、うるさくて苦手だ」という日本人学者のエッセーも読んだことがあります。

乱暴な一般化はできませんが、(少なくとも私のまわりにいる)日本人は、「理由」を言うことをなじみのない行為と思う傾向がある、ということですよね。アメリカなどとは違い、ある程度同じような文化や宗教を共有している日本では「なんで?」とあえて尋ねなくてもお互い「あ・うん」の呼吸でわかり合える、という側面もあると思います。

しかし、なじみがない、ということは、普段からある程度気をつけておかないと、いざと言うときに「理由」が言えない、ということでもあると思います。将来的/金銭的に影響が大きそうで、他人に迷惑をかけそうな時になったら、いつでも理由もきちんと考えつくし、議論もきちんとできるわ…ということならいいのですが、実際はそう簡単には行かないようです。授業で学生に意見の根拠を尋ねると、「なんとなく」「わからない」と答える人がとても多いと感じます。

critical thinkingというスイッチがある、人生」でも述べましたが、いざとなったら critical thinking というスイッチを入れられる状態にしておく、ということは、まずはそのスイッチ(critical thinking を場合に応じて実践できる素地)を作り、スイッチが錆び付かないように普段からお手入れしておく必要があります。

理由を考える訓練は、日常的に簡単にできるんです。たとえば、目の前に、ぶどう・イチゴ・みかん味の飴があったとします。「イチゴにしよう」と決めたら「私はなぜイチゴの飴を食べたいのか」と自問します。理由は「イチゴが好きだから」でも「そろそろイチゴの季節だから」でも何でもいいんです。あるいは、「今日の昼は牛丼にしたい」と思ったら「なぜ牛丼にしたいと思うのか」自問自答するのです。え〜っ、そんなの疲れそう…と思われるかもしれませんが、仕方ないんですね、トレーニングですから。

でも、これはあくまでも、理由を考えることに慣れるための「トレーニング」ですので、普段の会話ではしないで下さいね(日常会話でも是非したい、とおっしゃる場合は止めませんが…)。

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