月別アーカイブ: 2011年11月

自分の「好き」について、とことん考える

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

子どもに critical thinking を教える時はいつも、まず最初に自分の好きなものを挙げてもらって「なんでそれが好きなの?」と質問することにしています。「意見」には必ず「理由」がなくてはならない、という critical thinking の大原則になじんでもらうためです。

なぜ意見には理由が必要なのかと言うと、人の意見というものは理由(根拠)があって初めて説得力を持つからです。そして、この場合の「意見」には普通、好き嫌いの問題は含まれません。「くさやが大好き」という人が、どんなにすばらしい「理由」を並べ立てても、くさやが嫌いな人が「言われてみればそうだ、くさやが好きになったぞ」とは思わない、ということですね。

では、どうして「○○が好きなの?」とあえて子どもたちに聞くのかというと、ひとつには、とにかく「なぜ」と考えることが大事であり、自分の好きなスポーツやキャラクターなどが題材であれば「考えるって楽しい」と思ってくれるのでは、という思惑があるからです。さらに言うと、「なぜ自分は○○が好きなのか」という問いが、いずれ自分という人間を知るきっかけになってくれるかな…と淡い期待を抱いている、というのもあります。

私は大学で論文指導の授業をしていますが、学生がよく「卒業論文のテーマを決められない」と相談に来ます。あくまでも自分で考えてもらいたいので、私の方から「○○なんかどう?」と提案することはありません。かわりに、「なぜ自分はこの専攻に興味があるのか、なぜそもそもこの分野を選んだのか」ということをとことん考えてみてね、と言うことにしています。

とことん考える、というのは、フローチャート式にどんどん考えを深めていくというイメージです。「なぜ自分はこの専攻を選んだのか」への答えが例えば、「先輩が薦めてくれたから」だとしたら、さらに進んで「なぜ先輩の薦めがそれほど意味があったのか」と自問し、仮に答えが「先輩が話してくれた授業の内容がおもしろそうだったから」であれば、「その『授業の内容』とは何か」と具体化し、その授業がディスカッションであれば、「私はなぜディスカッションが好きなのか」という具合にさらに掘り下げていくのです。

すると、今まではあまり気づかなかった「自分」という人間の性質に気づいたり、自分が研究してみたいテーマもおぼろげながら見えてくることが多いようです。中には、学問とは全く関係ない答えに行き着くこともありますが、それでも若いうちに自分についてあれこれ考えてみるのは、(よけいなお世話かもしれませんが)決して悪いことではないと思っています。

若くはなくとも(たとえば私)「なぜ私は○○が好きなのか」と真剣に考えてみると、意外な発見があったりします。私自身の「好き」を例に、この「掘り下げ質問プロセス」を具体的にお見せすると…

私はチョコが大好き(なぜ?)→苦いから(そもそも苦いものが好きなのか?)→苦い野菜は好きだけれど、苦ければなんでもいいというわけではない。

これ以上掘り下げられない、という状態になったら、自分の好きなもの/人(今回の場合はチョコ)にまつわる、いちばん印象深いエピソード(あるいは原体験)について考えてみます。私の場合は、小学1年の時に6年生のおねえさんが「チョコレートパフェが食べたい!」と言ったのを聞いたことです。「チョコレートパフェを食べたいと発言すること=かっこいい大人の証」と思ったんですね。原体験について考えをめぐらせる内にそんなことを思い出しました。私にとっては「チョコレート(パフェでも何でも)を食べる=ちょっと背伸びをした気になる、かっこいい行為」という図式があることがぼんやりと見えたわけです。そう言えば、背伸びするの好きだよなぁ、私。と納得です。

先日、やはりチョコ好きの友人にこの話をしたところ、彼女の原体験は、子どもの頃に初めて食べたチョコフレークで、「世の中にこんなにおいしいものがあるなんて!」と感動したと言っていました。そこから話は進んで、「私たちが子どもの頃は、『物』が満足感の元だったのかもしれない」とも話してくれました。

相手を説得するための「理由」ではなく、自分を知るための「理由」。皆さんもお時間がある時に、とことん考えてみませんか。

Twitterボタン

子どもと美術館に行ってみる

こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。

昨日、ひょんなことから、美術館とは普段まるで縁のない子どもたち(8歳と3歳)を連れて「モダン・アート,アメリカン展」(国立新美術館、12月12日まで開催)に出かけました。アメリカ初の近代美術館である「フィリップス・コレクション」からの、美しい色彩の作品110点がズラリ。肩肘張らずに楽しめる、おススメの展覧会です。

子どもどころか、私自身が美術展とは縁のない生活を送っているのですが、昨日久しぶりに出かけてみて、「もっと子どもを連れて美術館に行かねば」と思いました。美術展は子どもが本物に触れられる絶好の機会でもあり、貴重な「考えるヒント」をも与えてくれます。中学生以下は無料という美術館も多いので、ある意味とてもお得です。もちろん、騒いで走る生き物である子どもに「騒がない、走らない」を徹底させ、「触らない」と言い聞かせる必要はありますが。

以下、子どもと一緒に、一流の絵画に囲まれて一流の(?)考える時間を持つための、一案です。何せ昨日思いついたことなので、まだ荒削りです、スミマセン。

  1. まずは、子どもが退屈していないかどうか、チェック(残念ながら、退屈しているようなら、「考える時間」はあきらめた方がいいかもしれないです)。
  2. 子どもが興味を持った作品に関しては、題名を教えずに「これって何の絵だと思う?」と尋ねたり、抽象画などについては、例えば「この絵が○○(例:教会)だって!なんでこんな教会を描いたんだろうね」と話し合ってみる。「無題」という作品などは、想像力を育む格好の題材になります。
  3. 「この中でもしも1枚だけ持って帰ってもいいって言われたら、どの絵をもらいたい?1枚だけ、自分のいちばん好きな絵を探してみようよ」と提案してみる(年齢が低い子どもの場合「本当に持って帰れるわけじゃないよ」と念を押す必要があるかもしれないですね)。
  4. いちばんのお気に入りを子どもが教えてくれたら、その絵の前に一緒に立ち、思い切り鑑賞。「なんでこの絵が好きなの?」と聞いてみる(ちなみに、上の子は、湖が描かれた作品を選んだのですが、理由は「水の感じがとてもすてき。水って感じがすごくする」。下の子が選んだのは全体的に水色がかった絵でしたが、理由は「水色がきれい」)。

「もしも1枚だけ持って帰ってもいいって言われたら、どの絵をもらいたい?」という問いは、私のかつての美術の先生が、美術館に連れて行って下さると決まって聞いてくれたものでした。「そうやって見ると、絵は楽しいよ」と仰っていました。当時は「この先生、変わったこと言うなぁ」ぐらいにしか思っていなかったのですが、あらためて考えてみると、この問いは奥深いと感じます。

美術展に行くと、歴史的に価値があるとか、批評家が絶賛しているとか、有名な画家によるものだとか、そういう他人による評価や知識に自分の「評価」が引きずられることが時にはあると思います。そういう知識を得ることはとても良いことだと思いますが、自分の意見が見えなくなるのは、もったいないとも思うのです。

私自身、「批評家がすばらしい作品だって言うけど、どこかいいのかわからないなぁ、良さが理解できない私がバカなのかなぁ、バカだって思われたくないから『すばらしい』って言っちゃおう」と思ったことが何度もありました。

私に傑作を理解するだけの「眼」がそなわっていなかった可能性は十二分にあるのですが、一方で、自分は本当は納得していないけれど、他人が決めた評価(=正解)をとりあえずうのみにする…というのは、「納得はいかないけれど、先生が正解だと仰るのだから正解だと信じよう」と従ってしまう「正解主義」の姿勢と同質のものを感じます。

だからこそ、(がんばって)美術展に子どもを連れて行って「自分だけのお気に入り」を探してもらうことには意義があると思っています。その作品の題名について一緒に考えたり、ある程度の年齢の子どもなら、画家について一緒に調べることもできますよね。調べ方を子どもに教えてあげるいい機会にもなると思います。

理屈はともかく。子どものうちに「本物」に触れるのは、何ものにも代えがたい経験です。皆さんも、子どもと一緒に美術館に出かけてみませんか。

Twitterボタン