こんにちは。「子どものための Critical Thinking Project」を主宰しています、狩野みきです。
日本の学校教育は「正解」を追い求め過ぎる、という批判を時々耳にしますが、今日は、この「正解主義」に関する話を書きたいと思います。
私が最初に正解主義らしきものにぶつかったのは、我が娘を小学校受験の塾にトライアルでやらせた時のことです。バスの絵と車の絵を見せて、「この2つの違う点を言いなさい」という問題が出されました。バスの方は公共バスという感じで角張っていて、車の方はビートルのような丸みを帯びた形をしていました。
娘の答えは「バスの方は四角い感じだけど、車の方は丸い感じ」。しかし、この答えは小学校受験的には「不正解」。後からの講評で、「2つのものの違いを述べよ、という問題では、『素材・用途』が正解で、それ以外の違いを指摘した場合は不正解」だということがわかりました。
せっかく子どもが考えて発言したのに、根拠も提示せずに「正解じゃないから」とばっさりと切ってしまうことに、(親の欲目も手伝って)深い疑問を感じました。もちろん、この一件だけで日本の受験全般を語るつもりはないのですが、普通の感覚(?)で考えれば「正解」になり得るものまで「不正解です」と言われてしまうと、子どもはいずれ「自分なりのやり方で考えるのはよそうかな」と思ってしまうのでは、と不安になりました。
入学試験など、多くの人間をふるいにかける必要がある場合は正解は1コの方が基準がぶれなくていいとは思います。そしてもちろん、正解を求めて計算能力などを高めることはすばらしいことだと思います。
でも、「正解は常にひとつだし、どんな問題にも正解はある」と無意識のうちに信じて大人になってしまうと、世の中に出てから苦労すると思うのです。だって世の中は「正解」がいっぱいあって、時には正解がないことだってありますよね。
私があえて日本で子どもたちに critical thinking を教えたいと願ういちばんの理由は、「大人が決めた正解を必死に探すよりも、自分を信じて自分の正解を探してみる」ということを微力ながら提案してみたいからです。これからのグローバル社会では、「地アタマ」で有名な守屋義彦氏なども指摘するように、誰かが決めた答えではなく、自分で考え抜いて納得のいく答えを見つける力が必要になってくるはずです。大前研一氏の言葉を借りると「21世紀は正解のない時代」だと思います。
critical thinking のレッスンでは毎回、「どんな答えも正解だから、はずがしがらないで言ってみて」としつこく言うことにしています。「正解」という言葉を使うこと自体、矛盾しているかもしれませんが、中には「正解じゃない」と言われることに敏感になっている子どももいるんです。
子どもが「正解」に縛られずに、クリエイティブに論理的に考える喜びを感じとってくれるといいな、と願いつつ、今日もレッスンプランを練り続けています。